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Japan Culture
私の好きな”かたちと風景” ③駒沢オリンピック公園総合運動場
私の好きな”かたちと風景” ③駒沢オリンピック公園総合運動場(通称・駒沢公園)
高度経済成長期、古民家や洋館の保存への注目が集まったのは、急速な国土開発を背景としていた。その一因となったのが1959年に開催地選定され、1964年開催となった東京オリンピックである。
現在、東京オリンピックを偲ぶことのできる場の一つに駒沢公園がある。駒沢公園は41haの規模を誇り、公園よりも低い位置の東西方向に道路が貫入し、中央のバス停を挟むようにして、上部の二箇所に公園の陸橋が交差する立体的な地盤を構成し、公園へのアクセスを容易にしている。バス停からは、南北の競技施設に向けて両側に階段と視界が広がり、北側は歩道からセットバックした広場の奥行きが脇に建つ水泳場の幅で決められている。階段を上がると中央公園へと至り、北に中央管制塔、東に陸上競技場、西に体育館が建つ。バス停の南側はバレーボール場やホッケー場があったが、現在一部の様子は変化した。公園の外周には周回できる約2kmのランニングコースが配されている。
1959年9月、駒沢公園は第二会場に決定し、既存の公園施設にあった従来の施設とオリンピック後の利用を含めた全体計画を東京都が直轄事業として行うことになった。その総合配置計画の研究を担ったのが、東京大学教授の高山英華、横山光雄(造園)らで構成された研究会である。その後、東京都は実施設計者の選考を行い、陸上競技と中央広場を含む外構計画を村田政真、体育館と記念管制塔を芦原義信、屋内競技場、ホッケー場、その他の建造物や造園の設計を東京都の施設建設事務所とした。施工は、戸田建設、鹿島建設、銭高組を中心に行われた。体育館や記念管制塔については、改めて紹介する予定である。
公園の計画で意識されたのは、オリンピック後の利用である。市民のレクリェーションに対応すべく、ランドスケープには緑が多く確保された。比較的大きな樹木は、関東一円の山林から先買いしておいたというから驚きである。次に、外周からどうアクセスさせるかという点に苦心したとされ、公園を貫通する道路を立体的に処理し、中央の広場で滞留の場を設けた配置にすることで対応している。
当時、各施設の設計者は、基本計画を重視し、外部空間(敷地内の建物の外部となる部分)の取り扱いに十分な配慮を行いながら創造的な建築設計がなされたことが評価されている。そのおかげで、現在は豊かな都市の自然を感じることができ、桜や紅葉など四季折々の花が楽しめる憩いの公園となっている。
参考文献:オリンピック代々木競技場および駒沢公園の企画・設計ならびに監理 (日本建築学会賞特集)、建築雑誌、日本建築学会、1965.8
角 昭一:駒沢運動公園、照明学会雑誌、1965.3
博士(工学)、有限会社花野果 代表取締役
二村 悟 Satoru Nimura
受賞歴:O-CHAパイオニア学術研究奨励賞 受賞、第47回SDA賞 サインデザイン奨励賞・九州地区賞特別賞 受賞、第5回辻静雄食文化賞 受賞ほか
静岡県掛川市 (旧大東町) 生まれ。博士(工学) (東京大学)。
東海大学大学院博士課程前期修了。元・静岡県立大学食品栄養科学部 客員准教授。
現在は、有限会社花野果 代表取締役、専門学校ICSカレッジオブアーツ 非常勤講師、日本大学生物資源科学部森林資源科学科 研究員・非常勤講師、工学院大学総合研究所 客員研究員。
主な著書:水と生きる建築土木遺産 彰国社 2016、日本の産業遺産図鑑 平凡社 2014、食と建築土木 LIXIL出版 2013、図説台湾都市物語 河出書房新社 2010
花野果 HANAYAKA https://tatemonoxxx.amebaownd.com/