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生活文化創造都市推進事業
生活文化創造都市ジャーナル_vol.12 「社会的強靭性(ソーシャル・レジリエンス)とは何か」―ワルシャワで負の遺産を富の遺産にする力を考えた
エッセイスト 望月照彦氏
第1章 ワルシャワで、一人の少女に出会った
昨年の夏、ワイフと共にワルシャワを訪れた。さる旅行会社が新しいツアーコースを開拓して募集をかけていたが、私たち夫婦はそれに乗ったわけである。ヨーロッパの東北側には魅力的な国々があるからツアーコースも多い。人気なのはチェコのプラハ、ハンガリーのブタペスト、オーストリアのウィーンを巡るコースであるが、そのツアーはプラハからモラヴィア高原を経てポーランドのクラクフを訪れ、そこから列車で3時間かけてワルシャワ入りとなる新コースだ。私たちは生涯のうちで一度はアウシュヴィッツの人類の負の刻印(遺産)を見ておかなければならないと考えていたし、子供のころからファンだったショパンが人生のスタート時を過ごしたワルシャワでは、彼の故郷を想う心に(実際に、聖十字架教会にはショパンの心臓が保管されている)触れてみたいと思っていたのであった。従って、プラハのカフカの不条理の情念を生み出した彼の書斎(下宿の騒音に悩まされていたカフカに、妹がプラハ城の下僕たちの宿舎を借りてやった部屋)もぜひとも見ておきたかったテーマだったので、この旅行会社のコースは私たちのために用意されたもの、と勝手に喜んでいたのであった。
実際、ワルシャワを訪れた月の10日は日曜日と重なって、いくつものも催事やイベントで街はにぎわっていた。嬉しかったのは、日曜日には街のはずれにあるワジェンキ公園で市民のためのショパンコンサートが開催されていて、観光客も無料で見ることができる。お昼の食事はショパンが好んで通っていたというホノラトカというレストランで魚のピカタをいただいたが(ツアーの定番であるようだが)、これが思った以上に美味で満足した。夜もベラルーシ出身の若きピアニスト、カタリナ・フシュタのコンサートを予約していたので、午後の公園での市民ショパンコンサートを聞ければ、実に充実したショパンと共に過ごす1日になる。
ワルシャワの観光の目玉となる旧市街地広場の観光を終えて、そのワジェンキ公園の市民コンサートに向かうバスに乗るために、広場のはずれのバス停にやってきたとき、思わぬ出会いがあった。私たちのグループのガイドは、ワルシャワ大学の日本語学科を卒業したバシャさんという日本にも留学した経験のある感性豊かな女性であるが、彼女が突然に私たちを引き留めた。「ちょっと彼女を見てやってください」と道路の向こう側で別のバスを待つ一人の少女を指し示した。彼女は佇んで一心に本を読んでいる。ちょっと変わった服装だ。白い質素なシャツ、しっかりした綿の茶のスカート、腕には赤十字のマーク、頭に軍用ナースキャップ、そう戦場での看護婦のスタイルである。「彼女は、実はポーランドが体験してきた幾つもの歴史的悲劇を忘れることはない、という服装をしています。そうです、あの看護婦スタイルは彼女の平和への希求を意志する心なのです(バシャさんは複雑な表現を駆使している)」。毅然とした彼女の姿は私には美しく思えた。そして一人の女性の意志ある姿から、今あるポーランドの人々の心根の多くを理解できるような想いがあった。
街角の少女のスタイルは、無論パリコレの<流行を追うファッション>からは遠いものであり、実在の一人の人間の生きる意味の自己表現と考えると、あるいは芸術やクリエーションをも超えたさらに沈潜した純粋な意志の姿、すなわちレジリエンス(=強靭な心)を私は感じることができた。
月の10日は、ポーランドの人々にとって特別な追悼と平和を祈る日だという。第2次大戦において2万人を超えるポーランド兵がソ連(ソビエト連邦)領土のカティンの森で殺害された事件が起こったが、2010年4月10日はその追悼式に向かった飛行機がポーランドのカチンスキ大統領以下要人96名を乗せて墜落し、全員が死亡した月命日。これはソ連の謀略だと言われているが、いまだに真相は明らかでない。この日、人々は冥福を祈り平和を希求する集まりを各所で開く。一人の少女も、一つの意思を持続させている。ポーランドという国は、幾重もの「負の遺産」を抱えている国のように思える。アウシュヴィッツはその最大のものかもしれない。しかし、クラクフ郊外のビルケナウ強制収容所が立ち並ぶ平原で、初秋の風に吹かれながら「この人間の業(ごう)を見つめ直す努力を続ける事こそが、人類の未来に富の遺産を生むのだ」と私は思念していた。
偶然に出会えた看護婦スタイルの少女にもその豊かな人類への愛のようなものを感じ、私はワルシャワの人々の意思と想いに深く感動を覚えながら、公園のコンサートに向かうバスに乗った。
第2章 歴史地区がさらに美しく蘇った
ショパンがよく通ったレストラン・ホノラトカの食事が終わり、徒歩で訪れたのがワルシャワ観光の中心となる歴史地区、その核になる旧市街広場であった。この美しく整備されたマーケット広場も、私たちに多くのポーランドの人々の心情を語ってくれる。
いま、世界中で議論されている言葉(概念)に、「レジリエンス」というものがある。日本語では「復元力」とか、「折れない心」とか、その結果としての「強靭性」などで表現されている。元々は、精神医学分野で人間の心の回復力のような意味合いで研究されていたようであるが、地域の地震や台風などの災害からの回復力の視点でも活用し始められた。従って2011年の東日本大震災からの地域の復元を見ることからも、この言葉が援用されている。近年では、「レジリエンス・エコノミー」などと言って、不況からの経済再生を考える政府機関の研究テーマにもなっている。私としては、エコノミー視点よりは「ソーシャル・レジリエンス」、すなわち「社会的強靭性」の方に心が動く。
それというのも、第2次大戦においてワルシャワの旧歴史地区の、特に市街広場を中心にした地域がナチスドイツ軍によって完膚なきまでに破壊されたが、戦後すぐにその広場を囲む建物や環境が、市民の手によって完全に元の歴史そのままに復元された事実を知ったからである。ナチスドイツの中心市街地の破壊は、政策的にポーランド人の誇りでありアイデンティティであったこの地域の美しい景観を破壊することによって、彼らの意気を消沈させる(気をくじく)意味があったとされる。いわば、逆文化政策ということになろうか。さらには、1944年のワルシャワ蜂起に対するナチスドイツ軍の報復が決定的であった。すなわち、ソ連赤軍の進撃作戦が効を奏し、優勢を保っていたドイツ中央軍は敗走する。赤軍はポーランド東部に進出し、ワルシャワのポーランド国内軍に武装蜂起を呼び掛けた。それに呼応して、ポーランド国内軍約5万人が反撃を開始する。これが「ワルシャワ蜂起」である。しかし、ワルシャワに駐屯する1万2千人のドイツ軍に対して国内軍は決定的に火器を欠いていた。期待していた赤軍の援軍も得られず(元々、赤軍にその意思はなかった)、果敢に戦った国内軍は9月末に壊滅した。この時、ヒットラーは徹底的にワルシャワを報復破壊したのであった。
しかし、歴史上何度も他国の侵入を許し、2度も地図上から国の名前を喪失させたポーランド人の意気が消失するどころか、心の中の反抗の炎は絶えることなく、沈潜して燃え続けレジリエンスの精神を保持したのであった。
戦後すぐに、市民は歴史地区の復元の議論を始め、先行的に一部の広場に面した建物群の再生に散乱するレンガなどの瓦礫を再利用して始める。ヒットラーが意図したのとは逆の、市民のアイデンティティの復元が、文化や経済の蘇りに先行すると考えたからである。しかし、行政の計画管理部門には戦後復興には新しい息吹を導入して、復古調を忌避する考えも生まれていた。歴史の流れを踏襲していくのか、斬新なデザインに未来を見るのか、基本的な政策の議論の相反が生まれたが、市民の多くの思想の底流にはポーランドの独自の文化への誇りや哲理が流れていたのではなかろうか。
これらの復元の意図には、地区の居住空間の周密性がスラム(ゲットー)を生み出す傾向もあったが、その地区には広場を設け、それらの連続性によって環境の向上を計ったりしたブロックもサーベイされており、復元には改良の行為も含まれていたと考えられる。
この歴史地区、特に市街広場の建物が忠実に復元できたのは、ひとつには国王スタニスワフ2世の招きでヴェネツィア生まれの画家ベルバルド・ベロットの18世紀末のワルシャワを描いた克明な風景画の20点が戦火を逃れて残っていたことであり、さらにはワルシャワ大学の建築科の学生たちが、戦時中からナチスの目を逃れて詳細なスケッチや図面を描き残していたことが大いに役に立ったという。
いま、ワルシャワの街を歩いて観ると、アメリカ流ガラスと鉄骨の近代ビルが立ち上がっているが、ひときわ異質なビル・文化科学宮殿を望むことができる。このビルは戦後のソビエトの社会主義支配の象徴として、スターリンから贈られたとする高層ビルである。それは明らかにスターリニズム帝国主義スタイルと言えそうだ。ガイドのバシャさんが、「実はこの文化科学宮殿は、何度か取り壊しが提案され、その都度生き残ったもので、ワルシャワ市民には、スターリンの社会主義支配を思い出してしまい、忌み嫌われている建物です」とこっそりと教えてくれた。その意味においても、歴史地区の復元にはポーランドへの愛着とアイデンティティを優先させる「文化のレジリエンス」という主張が込められていたのではなかろうか。
1980年、ワルシャワの歴史地区はユネスコによって世界文化遺産に登録された。しかしこれは2回目の採択で、1回目にはこの地区は、「過去の遺産の復元された文化財」に過ぎないという意見によって没となった。この評価を受けて登録の中心となったワルシャワ工科大学のヤン・ザフファトヴィッチ教授の、「旧市街は復元されたからこそその価値を継承している。破壊と復興の歴史と意志を包含しているからこそ文化遺産だ」という主張が認められ、2回目に登録となった。ユネスコですら復元の持つ意味を理解しかねていたのであるが、世界で初めて「破壊から復元及び維持への人々の営み」として世界遺産である価値が認められることになったのである。
私たちの日本では、第2次大戦で戦火にあった都市や街々はどうなったであろうか。それらの多くは近代都市やビル群に生まれ変わり、焼失を免れた歴史遺産は明治以降の近代化を善とする波にのまれて破壊され、見捨てられた。近年に至ってようやく残された物の価値や残滓遺産の意味が発見され、コンバージョンやリユースの思想で、活用が認められるようになってきている。歴史や文化を内包した古いものを打ち捨て、新しいものに変えていくのがクリエーションではなく、古い残存物から価値を見つけさらに付加していく行為が本当のクリエーションであることを、ワルシャワ歴史地区の試みが私たちに教えてくれる。それは、負の遺産と思えたものに、実に多くの価値が実装されていることに気づくレジリエンスの力が求められていることを、示している。
第3章 ショパンのレジリエンス
私は、一人の少女との出会いの感動をずっとバスの中でも胸に抱え、ワジェンキ公園に向かったのであるが、その公園の中央には小さな池と大きなショパンの銅像が待っていてくれた。そして、すでに1千人を超える市民たちが銅像の隣にあるステージで若い女性のピアニストの弾く曲を聴いている。本当にショパンは全ての市民に愛されているのだな、と実感しながら私もファンの一人として空いた木の椅子を見つけ腰を下ろした。曲が変わって、テンポの速い『子犬のワルツ』に代わった。見上げると青く晴れたワルシャワの空に、雲たちがその曲に合わせて弾むように流れていく。しかし、踊り出したのは雲たちだけではなかった。隣に座っている幾つかの家族の中の何人かの女の子たちが立ち上がると、手に手を取ってワルツに合わせて踊り出したのであった。女の子たちは輪を作り、ぐるぐると自然に回りながら楽しんでいる。ショパンの曲が、彼女たちにはすでに「身体知」のようになっているのであろうか。私は、ピアノを一心に弾いているピアニストから目を離して、本当に子犬のようにじゃれあっている子供たちを、何か嬉しい気持ちになって眺めていた。
夕方からのカタリナ・フシュタさんのコンサートも素晴らしかった。50人ほどしか入らない小さなホールで催されたものであったが、王宮の一部のホールで円天井が連なった空間である。私には、ピアノの音が少々重たく感じられたが、それはKAWAIのピアノのせいなのか、丸天井の連なりが起こす錯綜する反響のせいか分からなかったが、やがて曲が激しい情念を秘めた『革命のエチュード』に代わると、むしろその音の重さが曲調と重なって、心に迫ってくる感じを持った。コンサートの合間に、短い休憩があって王宮のテラスに出て用意されたシャンペン風の蜂蜜酒をいただいた。甘いお酒がのどを通して気持ちの中でいくつもの曲とバイブレートしていくのが感じられる。庭園の樹々の合間から遠くヴィスワ川の陽が沈んでいく夕景が見える。
ショパンは、この夕暮れのヴィスワ川を眺めながらパリへの出立をどんな風に考えていたのであろうか。ショパンがパリ行を決心していた当時、ポーランドはウィーン会議の取り決めで、領土の半分をロシアに支配されていた。しかしその頸木に抗し、祖国独立の運動は激化していった。ショパンの伝記によれば、身体が弱く作曲とピアノしか弾けない彼であっても、愛国心は人には負けない強さを持っていた。そんな彼に周囲の人々は「ポーランドのために君ができることは武器を持って戦うことではない。祖国への愛を持って、素晴らしい音楽を創ることだ」と国外脱出を勧めたという、よく聞く逸話がある。パリに赴いて、期待通りの素晴らしい楽曲を次々に創り出すショパンの心の琴線には、レジリエンスというピアノ線が代わりに張られていたと、思ってもみたりした。
陽の落ちたテラスで蜂蜜酒を飲み干した私の頭の中では、まだ先ほどの『革命』のエチュードが激しく、優しく鳴っていた。
画像提供:望月照彦氏