授賞案件

日本クリエイション大賞2006 授賞案件

日本クリエイション大賞2006 大賞

大型アクリルパネルが拓く展示様式の可能性

日プラ株式会社


海の一角をそのまま切り取ったような世界が広がる水族館。目の前を悠々と泳ぐ巨大なサメ、ひらひらと優雅に泳ぐエイ、一筋のリボンのように通り過ぎる回遊魚の群れ。巨大な海の世界と観客をつないでいるのは透明なアクリルパネルだけ。この数千トン以上にもなる水を受け止めているのが日プラの製品「アクアウォール」である。

日プラは1969年に香川県高松市に誕生した。1970年に、地元高松の屋島山上水族館に世界初のアクリル製回遊水槽を納入したのを皮切りに、日本国内では大阪の海遊館、沖縄美ら海水族館、旭山動物園などの水槽を次々と手がけ、そのプロジェクト数は国内だけで150件に及ぶ。近年、水族館や動物園が画期的な展示様式を実現させ、観る人に感動を与えているが、それを陰で支えているのは、こうした新しい展示様式を可能にする日プラのアクリルパネルの高い技術力である。

日プラの活躍の場は日本国内にとどまらない。同社のアクリルパネルは世界42ケ国の水族館や動物園で使われており、技術者は高松から世界各地に飛び、現地に長期間駐在し施工に取り組んでいる。沖縄の美ら海水族館で使われている長さ22.5メートル、高さ8.2メートル、厚さ60センチ、重さ135トン(1枚)のアクリルウォールは、目下世界最大のアクリルパネルだ。

日プラの高い技術力は他の追随を許さない。精度の高い熟成型加工はもちろんのこと、品質の劣化を防ぎ安定した透明度を保つ高水準の熱処理技術は、何層にも重ねたアクリル板の接着部分を世界最高水準の強度に仕上げ、重ねても透明度が落ちることがない。

同社のアクリルパネルは最終製品を出荷するのではなく、施工現場で最終製品に仕上げられる。超重量のアクリルパネルを建設現場で寝かさずに立てたまま接着する技術をもつほか、水槽が大型化すればするほど要求が厳しくなる躯体防水技術などで独自の技術を開発し、魚類の生活環境を守りながら、常に不可能を可能に変えてきたのが日プラの歴史である。

「水槽の大きさに限界はない」という言葉と共に、これからも日プラの挑戦は世界で続き、さらに多くの感動を生むに違いない。

 

日本クリエイション大賞2006 特別賞

日本の英知を育む天城会議

日本アイ・ビー・エム株式会社 最高顧問 椎名 武雄 殿

1970年、アジア初となる日本万国博覧会EXPO’70が大阪で開催されたその年に、第一回「天城会議」は開催された。前年にはアポロ11号が人類初の有人月面着陸に成功。よど号ハイジャック事件や三島事件が起こり、その後ドルショック(’71)、沖縄返還(’72)、オイルショック(’73)と、政治、経済、社会のさまざまな面で日本が激しく揺れ動いていた時代である。

当時、日本アイ・ビー・エム株式会社の副社長であった椎名武雄氏は、「激しく揺れ動く時代変化を予見し、日本のとるべき道について、幅広い視点から各界の有識者の方々に自由に議論していただく場が必要」と考え、これまでにない新しい議論と交流の場を発足させた。 産業界はもとより、学界、官界、言論界、さらに文化芸術の世界に至る約50名の有識者が、年に一度、同社が静岡県伊豆市に有する研修施設「天城ホームスタッド」に集い、日本の未来について自由闊達に議論し合う会議である。各界を代表するオピニオンリーダーが集う場は希少だが、あえて結論は求めず、あくまで自由な立場・発想で意見を交換し、議論を深めることを目的とした。そのため会議の成果を広く公表するのではなく、それぞれの立場に持ち帰ることとなっており、そうしたサロンの雰囲気が37年間という長きにわたり会議を継続させている理由のひとつになっている。

運営は参加者に委ねた形態をとっている。メンバーの中から選ばれた「世話人」が、本会議のテーマ設定やプログラム構成など企画運営を担う。一方、同社は会場などの場の準備と事務局として会議運営を担っている。

天城会議の成功を受け、世代別に「伊豆会議」「富士会議」、あるいは国公立・私立の大学学長を対象にした「天城学長会議」、さらに「地域有識者会議」と、同社は議論の場と仕組みをその後も数々と提供している。

企業の社会的責任が厳しく問われる昨今だが、CSRという言葉の生まれる以前から、企業活動の枠を超え、コミュニティに貢献する有識者会議を支援し続けてきたのが日本アイ・ビー・エム株式会社である。この天城会議を発案し、その情熱と強い意志をもって、長期にわたりサロンとしてかたちづくってきた椎名武雄氏の功績は特筆すべきものといえる。

日本クリエイション大賞2006 地域活性化賞

過疎化、高齢化、少子化問題解決につながる香木の森研修制度

島根県邑智(おおち)郡邑南(おおなん)町 殿

邑智郡邑南町は、島根県のほぼ中央に位置し、標高600~800mの山々に囲まれた盆地。人口は昭和30年をピークに近年はその半分の約13,000人。

高齢者が約4割の過疎の町である。

町が都市住民との多様な交流促進の拠点として「香木(こうぼく)の森公園」をオープンさせたのが91年。そして、この公園を活動拠点に93年に始まったのが「香木の森研修制度」である。

県外在住の22~35歳の独身女性で、農業に関心が高く、町の行事や地域交流に積極的に参加する意欲のある者を対象とし、毎年6名を公募。研修生には月13万円(当初は7万円)が支給され、専用の宿舎「香賓館」で共同生活をしながら1年間、ハーブ栽培やハーブクラフトを学び、また公園でのハーブ苗の生産・販売、ハーブクラフト指導等を担う。

あくまで交流が目的、ということで、地元の祭りなど地域行事への積極的な参加を求めたが、「嫁募集の制度ではなく、もし残ってくれたら嬉しいけど、そうでなくても構わない。戻った先でこの町の良さ、魅力を発信してくれればよい」という姿勢を貫いた。

制度が始まってみると、研修制度に多数の応募があり、しかも毎年何人かが町に残り、「香木の森公園」にも多くの人が訪れるなど、人々に町の良さを再認識させることになった。こうして町への評価が高まったことは、Uターン人口の増加にもつながった。また、お年寄り達が、彼女達を何かと面倒みることで張り合いができ、元気になったという。

研修生達も、町の豊かな自然と人々の温かさによって癒され、「石見は第2の故郷」「大変な事もあるけど楽しい」「人は少ないけど、知り合いは多い」と口を揃える。その結果、長期研修終了者97名のうち23名が町内に定住し、そのなかの15名は同町内で結婚。また7名が町外ではあるが県内に定住し、研修生の産んだ「研修生キッズ」は今や22名になった。定住しなかった元研修生も夏休みなどに家族や友人を引き連れやってくるなど、町との交流を続けている。

その後研修制度は、「農作業のサイクルに合わせ研修開始を2月にする」、「1ヶ月の短期研修コースや農業研修コースを設ける」、「香木の森研修に園芸福祉を導入する」などの改良を続けながら、2006年度までの14期合計で158名の研修生を受け入れ、交流人口の拡大、そして町の活性化に寄与している。

日本クリエイション大賞2006 海外特別賞

乱伐進むふるさとに200万本の木を植えた人

ウィチャイ・スリユット元警察少尉 殿

ただひとり、ふるさとに黙々と木を植え続けることに人生をかけた生き方が、タイの人々に深い感銘をあたえ、感動とともに、植林活動に取り組もうとする人の輪が広がっている。

ウィチャイ・スリユット氏は警察官としての仕事を持つかたわら、約20年間に亘って、ふるさとに植林活動を続け、植えた木の数は200万本を超えた。最初は周囲から奇異な目で見られることも多かったが、毎朝5時に起き仕事に出かけるまでの間の時間と、土曜、日曜の休日を植林のためにささげた。

タイでは1970年代から80年代にかけての大規模伐採により森林が激減。かつて国土の70%をしめた森林の面積が25%にまで落ち込んだ。森林の大規模伐採は、緑地の減少にとどまらず、土砂崩れ、洪水などの被害をタイ各地にもたらす結果となった。

こうした事態を憂慮し、タイ王室をはじめ、タイの国内外のさまざまな団体や人々がタイの緑の再生に立ち上がった。そうした中で、ウィチャイ氏は誰の手も借りずにただ一人、ふるさとの町に木を植え続けた。ふるさとへの深い愛情が、彼の20年間に亘る植林活動を支え続けたのである。町に緑豊かな自然を取り戻すと同時に、都市に働きに出ずとも、人々が生まれ育ったふるさとで自立して暮らしをたてて生きてゆけるようにしたいというのが彼の願いであった。そのために彼が選んで植えた木は、人々の食用となるような果実を実らせる木であり、商品加工に役立つ木であり、家を建てるのに使える樹木であった。田の周囲に植林する時は、それが田の土壌改良に役立つものということを考えた。

周囲から奇異な目で見られても、「良いこととわかってさえいれば、まず自分から始めることだ。やがては周囲も理解してくれるに違いない」。また、自分の時間のほとんどを植林のボランティアに費やすことも「幸せはお金では買えない。木を植えることが幸せだ」と考えたウィチャイ氏。

昨年警察官を退職したウィチャイ氏は、現在、タイ各地をまわり、植林の大切さを説いている。

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