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授賞案件
日本クリエイション大賞2004 授賞案件
日本クリエイション大賞2004 大賞
「人間と動物との共存」を行動展示で実践し全国から集客
旭川市 旭山動物園園長 小菅 正夫 様
1967年に“日本最北の動物園”として旭川に開園した 旭山動物園。しかし入場者は年々減少、96年には過去最 低を記録し、身売り寸前の厳しい状況に陥った。
娯楽の 多様化や少子化の影響に加え、テレビでは動物の特集が 放映、インターネットではその鳴き声までをも検索でき る今日、退屈そうに檻の中で寝ている動物を見に来る人 が減るのは、ある意味当然なのかもしれない。
翌’97年の市議会で、小菅園長は「昨年の26万人の来園者 を、倍の50万人にしてみせる」と宣言。それから3年後に は早くも目標を達成したばかりか、2003年には旭川市の 人口の2倍以上にあたる82万人を集客。さらに’04年の7月 ・8月には、単月実績としては2ヶ月連続で上野動物園の それをも凌駕して、全国1位に輝いた。’04年度3月期は 140万人を超える見込というから凄まじい。
この驚異的なV字回復の背景にあったのは、スタッフ たちの動物に対する熱い想い。「市民に愛されるために、 何を伝えたらよいか、スタッフ全員で真剣に考えた」、「動 物は“かわいい”ではなく“すごい”ということを伝える」 (小菅園長)。スタッフたちは予算難に苦しみながらも、 動物の飼育環境の改善と、動物の特徴的な行動を見せる “行動展示”を全面に出した大胆な投資を次々に行ない、 来園者の心を着実に掴んでいった。「もうじゅう館」(’98年 9月)、「さる山」(’99年7月)、「ぺんぎん館」(’00年9月)、 「ほっきょくぐま館」(’02年9月)、「あざらし館」(’04年6月) などの施設は、そのどれをとっても、従来の視点とはま ったく異なったポイントから、動物の姿形ではなく生態 のすばらしさを観察できる工夫が凝らされていた。例え ば、ペンギンが鳥類であることは知っていても、あの愛 らしい姿からはあまり実感することはない。しかし、旭 山の「ぺんぎん館」では、水中に作られた透明のトンネル の中から観察することによって、ペンギンたちが空を飛 ぶように機敏に頭上を泳いで行く。身売り寸前の厳しい 状況の中、市から予算を引き出し、実績で証明、さらに 予算を獲得し新たな施設に再投資するという好循環の構 築は、見事なクリエイションワークといえる。
「動物のすごさに感動した人は、動物虐待などの悪さ をしない」と小菅園長は語る。旭山動物園の復活物語は、 単なる来園者の増加や、それに付随する80億円とも試算 される経済効果を生み出したばかりか、動物の、そして 人間の命の尊さ、すばらしさまでをも私たちに教えてく れているのである。
日本クリエイション大賞2004 生活文化創造賞
過去と未来を共存させる街 金沢
石川県金沢市 市長 山出 保 様
加賀百万石の城下町金沢。前田利家の入城以来、この街 には様々な文化が開花し、その伝統は今日にも受け継がれていることは誰もが知るところである。しかし、この街で は未来をも見据えたさまざまな活動が行なわれている。
武家屋敷や茶屋街。これらの街並みの整備・保存事業は、 それ自体が観光資源になることはもちろんだが、それ以上 に市民たちの伝統を大切にしようという姿勢を感じさせてくれる。
街並みだけではない。市では伝統文化や伝統工芸に携わる 人材を将来にわたって育てると同時に、市民にも見せる「金沢職人大学校」や「金沢卯辰山工芸工房」を設置。次代の伝 統産業を担う職人を養成すると同時に、広く公開すること により、市民一般の文化レベルの向上にも役立てられている。 親方から何も教えられることなく技を盗むという従来の徒 弟制度では、優秀な若い世代は集まらないのかもしれないし、 またせっかくの成果を狭い伝統の世界だけに留めておくのでは意味がない。
この他にも、ミュージック工房やドラマ工房などの設備 を備える「金沢市民芸術村」は、音楽・演劇などの練習場所 として24時間、低料金で利用することが可能。一自治体の活動として、これほどまで文化政策に傾注しているケースも珍しいが、金沢の先進的な取り組みは、これだけでは終 わらない。
昨2004年の事象を二つ紹介する。一つ目は、かつての住 居表示の変更で消えた「旧町名の復活」を全国に先駆けて実施。趣のある町名が復活した。しかし、この目的は、「単なる懐古趣味ではなく、歴史と文化に責任を持ち、地域への愛着を大事にするため」と、山出市長は語る。町名の謂れを 知ることによって、コミュニティへの帰属意識が高まる。 若年層の非行や独居老人の孤独死などの痛ましい事件も、 地域への愛着があれば防げるのかもしれない。全国で「平成の大合併」が進められている今日だからこそ、この意義 は一層大きい。二つ目は「金沢21世紀美術館」の開館。そ の展示内容は、従来の「金沢=伝統」というステレオタイ プを打ち破り、現代美術に特化。まだ評価の定まっていな いアーティストの作品なども積極的に展示し、今後の美術館の在り方への鋭い問題提起となった。また「子供のうち から芸術に親しめば、必ずリピートする」ため、市内の小中学生全員を招待するなどの試みも大変興味深い。10月の開館 からたった2ヶ月で、入場者数は初年度目標の30万人を突破。 2月には50万人を超え、既に金沢市の人口を上回る数を記録 し、休日来街者の激増や新商圏の形成などの副次的効果も生んでいる。
このほかにも、石川県や金沢商工会議所・青年会議所な どと共同で推進している「オーケストラ アンサンブル 金沢」(岩城宏之音楽監督)や、各界の著名人を招いて石川の 食文化とそれを育てた風土を満喫できるイベント「フード ピア金沢」などまで含めれば、金沢市の文化発信事業は本当 に枚挙に遑がない。
これら一連の活動の背景には、行政の努力はもちろんの こと、藩政期以来の伝統に裏づけされた、確かな審美眼を 持った市民たちの文化・芸術に対する理解や、老舗旦那衆の支援など、メセナやフィランソロピーなどという言葉が日本に紹介される数百年も前から、市民が文化を支援する土壌が自然にあったからに他ならない。
単なる「美」の追求や懐古主義、あるいは“道楽”ではなく、 金沢では過去と未来の絶妙なバランスで文化が息づいており、 都市のデザインをクリエイトしている。
日本クリエイション大賞2004 教育文化賞
『子供の科学』創刊80周年
株式会社誠文堂新光社 代表取締役社長 小川 雄一 様
1924(大正13)年。関東大震災から1年が経ち、翌年に控 えたラジオ放送の試験電波が飛び交い始めたこの年、科学ジャーナリストの原田三夫氏によって創刊された『子供の科学』は、昨2004年、80周年を迎えた。
子供の学力低下や理系離れが声高に叫ばれ、科学教育の重要性がますます高まりつつある今日、このような子 供向け科学雑誌が果たす役割はさらに大きくなっている。 事実、湯川秀樹博士をはじめ歴代のノーベル賞受賞者や、 文部大臣・科学技術庁長官を歴任された元東大総長の有馬朗人博士らも、子供の頃はこの『子科』の愛読者だった というから、現在の読者の中にも文字通りの「末は博士 か大臣か」がいるのかもしれない。
80年の歴史は、時代を映す鏡。恐らく当局の指導もあ ったのだろう、戦争の影が色濃くなる頃には、最新兵器 の特集記事なども掲載されたが、終戦直後には「トタン板の上でパンを焼く方法」を特集。また1964年10月号で は新幹線が、’72年12月号では、パンダが表紙を飾った。好評だった天体特集の記事を独立させ、『子科』の別冊として出版された『天文ガイド』も、今日では50年の歴史を有 している。
一方、80年間一切変わらなかったのは「子供のための科学の入口」という基本姿勢。創刊当初から、写真やカ ラー印刷を多用、恐竜の特集を組んだり、地下鉄や高架道路が走る未来の町の想像図を掲載したりと、その内容 は高度に情報化が進んだ今日の子供をも充分に魅了させるのに余りある。
この基本姿勢は、「少年少女諸君」という書き出しで始 まる原田氏による創刊号の発刊の辞に既に読み取ること ができる。以下引用したい。
“(中略)この雑誌の一番大切な目的は、本当の科学とい うものが、どういうものであるかを、皆さんに知ってい ただくことであります。近頃は、「科学科学」とやかまし くいいますが、本当に科学というものを知っている人は、 沢山ないようです。人は生まれながら、美しいものを好 む心を持っておりますが、それと同じように、自然の物事については詳しく知り、深く究めようとする欲があり ます。昔から、その欲の強い人々が調べた結果、自然の物事の間には、沢山の定まった規則のあることが分かり ました。科学というのは、この規則を明らかにするものであります。多くの人が科学といっているのは、大抵はその応用に過ぎません。この規則を知ることによって、 人間は自然にしたがって、無理のないように生き、楽し く暮らすことができ、これを応用して世が文明におもむ くのです。”
自然法則を解明する科学というものの大切さを説きな がらも、「自然にしたがって無理のないように生きる」と いう、自然に対してはあくまでも謙虚で誠実な姿勢があ ったからこそ、『子科』は80年もの長きにわたって継続 することができたのだろう。変えるべきことと、変えて はいけないものの絶妙なバランスをとりながら、一つの 事物を継続することも巧みなクリエイションワークである。
日本クリエイション大賞2004 ニッポンのモノづくり賞
世界一の砲丸づくり
有限会社辻谷工業 代表取締役 辻谷 政久 様
埼玉県富士見市でスポーツ用品を設計・製造する辻谷工 業。決して大きくはなく、失礼を省みずに言えば、寧ろ「町工 場」という表現の方が的確な会社であるが、この会社の辻 谷社長が作った砲丸は、まさに日本人が世界に誇る職人技 術の結晶である。
砲丸投げでは、選手が持参した砲丸ではなく、厳格な基準をクリアして大会主催者が用意したものを投げて勝敗を 競い合う。重心が外れていると力も分散してしまうため、 飛距離が出る砲丸の条件は「重心が球の中心にあること」。 黄身が固まっているゆで卵の方が、重心が不安定な生卵よ り速く長く回るのと同じ原理と言えば理解し易いか。
辻谷工業の砲丸は、88年のソウル大会から五輪に公式採 用。アトランタでメダルを独占した後に迎えたシドニー大会では、選手の掌に吸い付くよう、表面に細かな筋の入った砲丸を開発。1位から12位までの選手全員が、この砲丸を使 ったという。以後のルールの改変により、そのタイプは使 えなくなったが、辻谷さんは徹底的に重心を真ん中に持っ てくることに取り組み、昨年のアテネでもメダルを独占、 オリンピック三大会連続で金銀銅のメダルを独占するとい うとてつもない記録を樹立した。
砲丸は球体の鋳物を旋盤で削って作られるが、さまざま な材料が混ざっている鋳物は、その冷却過程において比重 の違いから沈殿が生じるため、重心は球体の中央よりも下 にきてしまうのが常である。よって球体表面を均一に研磨 するだけでは飛ぶ砲丸は作れないが、辻谷さんは旋削する 際の硬さと切削した表面の色や音—硬い部分は光沢があり高 い音がするが、軟らかい部分は鈍い色で低い音—また掌に感 じる圧力で砲丸の密度の違いを総合的に判断。さらには季 節や気温などに起因する鋳物の冷却速度の違いや、切削する 日の温度や湿度の影響をも鑑みながら、どの程度削って重 量とバランスを許容範囲におさめるかという非常に難しい 加工をやってのける。
他社の砲丸は、旋削の終わったものに二次加工で穴をあ けて鉛を詰めたり、えぐったりして重量やバランスを調整 しているケースがほとんどであるが、辻谷さんは世界で唯 一、切削加工のみで、重量約7.26kg、直径約12.5cm(五輪男子 用)という規格をクリアした砲丸を仕上げることが可能な 人物である。完成品を水平面に置いても球形なのに転がら ないのは、極限まで重心が真ん中にある証拠。重心の誤差 は0.5mm以内というから驚嘆に値する。
辻谷さんの技術は、まさに職人芸と呼ぶに相応しいが、 長年の勘と経験だけで、このような技を身につけたわけで はない。「材料の本質を見極めることが重要」と語る氏は、 川口にある鋳物工場に1年半にわたって足を運び材料の研究 を重ねるなど、地道な努力を重ねた結果。
砲丸作りは高い技術が要るわりには儲けは少ないという が、海外からの破格な技術移転のオファーも跳ね除け「日本人選手が自分の作った砲丸で金メダルを取ることが夢」と いうその真摯な姿勢と素敵な笑顔は、“職人気質”という言葉を忘れ、地道な“モノづくりの大切さ”を軽んじる傾向に ある私たち日本人への警鐘とも取れる。
日本クリエイション大賞2004 まちおこし創造賞
北緯40度 ミルクとワインとクリーンエネルギーの町 くずまき
岩手県葛巻町町長 中村 哲雄 様
岩手県北東部に位置する葛巻町。面積こそ横浜市とほ ぼ同じと広いが、人口は同市の0.24%と極端に少なく、し かも高齢者比率が高い。1,000メートル級の山々に囲まれ た強風の高冷地は稲作には適さず、畜産業と林業が主体 の小さな町。しかし、この町は、過酷な自然条件をクリエイティブな発想で見事克服し、大成功を収めている。
この町が大きく変わる契機となったのは、当時の農用地開発公団(現・緑資源機構)の事業により大規模畜産団 地の造成が開始され、公共牧場を管理運営する社団法人 葛巻町畜産開発公社(くずまき高原牧場)が設立された 1975(昭和50)年。今日では、急峻な山で放牧された丈夫 な牛から取れる良質なミルクのほか、レストラン、パン やチーズ工場などを手広く経営。また、牧場が持つ緑、 空間、ゆとり、教育効果などを「酪農教育ファーム」と して実践、来訪者に提供している。
さらに、1986(昭和61)年には、地域に自生している山 ぶどうの健康食品としての有用性に着目してワイン工場 を建設。現在では20品種のワイン及びジュースを生産、 国産ワインコンクールで受賞するまでに成長している。ミルクとワインで成功を収めると、視察のための来訪 者が増加。そこで1993年(平成5)年には、「ふれあい宿舎グリーンテージくずまき」を建設し、宿泊施設の提供を 開始した。
これらの第三セクター3社で、160人の雇用を創出。売上 高17億6千万円で、約6千万円の黒字を出しており、地域経済活性化に多大なる貢献をしている。
しかし、この町の挑戦は、それだけでは終わらない。 京都議定書調印以来高まっていたクリーンエネルギーへ の関心を背景に、1999(平成11)年3月、新エネルギービジョンを作成。同年6月には風力発電用の風車3基が、ま た4年後には12基が追加で建設された。この他、葛巻中学校には太陽光発電、くずまき高原牧場では畜産バイオマ ス発電を行ない、昨年にはメタンガスから世界で初めて 燃料電池を製造することに成功。今年は木質バイオマス発 電所が建設されるなど、町ぐるみでクリーンエネルギーの開発に取り組んでいる。また20年前から木質バイオマ スペレット燃料製造工場があり、3,000世帯の町で1,500世 帯分の熱源と17,000世帯分の電力を供給しているという。 「町が持っている多面的資源と機能と人材を活かし、21 世紀の地球規模での課題である『食料・環境・エネルギー』 の問題に貢献しながら発展的状況を構築すること」と、 中村町長は町の“経営方針”を語る。
この小さな町がクリエイティブな視点に立って取り組 んできた数々の挑戦は、単なる地域振興のモデルに留ま らず、天然資源が少なく、超高齢化社会を控えた我が国 の将来をも映した縮図とも捉えることができる。町の挑戦はまだまだ続くが、葛巻以外に住む我々にとっても、決 して他人ごとではないのかもしれない。